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沖縄自治研究会

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イタリアにおけるリージョナリズム 

第3回研究会
1.イタリアにおけるリージョナリズム 
2004年6月27日(日)
拓殖大学助教授 池谷知明
場所:琉球大学


○池谷知明 氏  
イタリアのリージョナリズムというテーマでお話し致しますが、この問題は、イタリア統一、これは1861年ですが、統一以来の問題です。それで、当時抱えていた地域的な問題、その最たるものが南部問題というものであったわけです。

 北部と南部は、さまざまな文化的な差異がある。北部、ミラノとかロンバルディーアとかエミリア・ロマーニャというところは、豊かな農業地域であったわけです。それに対してシチリアとかカラービア、土地が貧しくて近代農業に適さない。加えて規制的な大都市所有というようなものがありました。

 それからナポリ。カンパーニャになりますけれど、ナポリも統一以前は大都市であったわけですけれども、今度はそれがイタリア王国の一地方都市に転落すると、いろいろな問題が生じてくる。シチリアはシチリアで農民反乱が、統一時にありましたし、それから1890年代にシチリア・ファッシというような民衆の運動というようなものがある、自治運動的な動きがあるわけです。

 そういったような混乱の中で、結局既得権益を守るためにマフィアが誕生してくるというようなことになってくるわけです。それをどうするかというようなことが様々な問題になってくる。それで、南部へこれまでずっと補助をしてきている。それが財政赤字の1つの要因になってきたということです。

 戦後、イタリアのローマの国家公務員には、南部出身が多いというようなことだったのです。こういった南部出身者を公務員として採用して、雇用を促進させる、そういうようなことがあったというふうに言われています。

 こういった中央集権体制は、ファシスト期に強化されるということですね。コムーネの長、シンダコというのも政府が任命する。それまでは議員から選ばれていたわけですけれども、ポデスタ制、このポデスタという名前は、中世のコムーネの危機のときに採用された制度なのですが、名前を真似してポデスタ制というようなものを導入しました。

 ファシスト体制が終わって、イタリア共和国が成立します。1845年4月25日にイタリアが解放されます。しかし、ローマまではシチリアから連合軍が攻め上がってきて解放するのです。それより北、フィレンツェとかボローニャは国民解放委員会、つまり政党が中心になって、いわゆるレジスタンス運動を展開して解放していくわけです。

 1946年6月2日、政体問題に関する国民投票を実施します。共和制か君主制かというようなことを国民投票で決定するということになったのですが、得票率54.2%と対45.8%ということで、共和制支持派が勝利して、イタリア王国からイタリア共和国に変わっていくということになったわけです。これは僅差と言えば僅差なのですが、しかし、地図で見るとローマより北は全部共和制支持派、州別に見ると、地域的に見ると全部共和制支持者なのです。それより南は、すべて君主制支持です。だから、その政体支持というときにも北部と南部いう違いというのがあったわけです。それは、南部に国王政府が移動するというようなことがあったからなのです。例えば、ナポリでは王政支持派が80%でした。イタリアの国王は、結局、敗戦責任を問われたということになるわけです。というのは、ファシストが成立するときに1922年ですが、ローマ進軍というのをやります。ローマ近郊に集まってデモをやって、半ばクーデターで政権を取ろうとしたわけですけれども、当時の首相ファクタという人は戒厳令を出して、それに対抗しようと思ったのですが、国王はその戒厳令の署名を拒否して、逆にムッソリーニに組閣を命じました。つまり、ファッショ体制に手を貸したのは国王だということです。結局、ファシスト体制が倒れたときに、国王の戦争責任が問われました。それで、共和国憲法で、国王及び男系子孫は国外追放ということになったわけです。ようやく一昨年に、追加条項を削除するということになって、その後、子孫が戻ってきたのです。彼らが戻ってきたところはナポリだったのですが、マルゲリータピザを食べたいという話が出たのですが、そういうときにまたこれイタリアらしいと思うのですけれども、我々はイタリア統一以前のブルボン朝の子孫だから、北部のイタリアの王国のやつは来るなというような反対運動が20人ぐらいですけれどもありました。

歴史の起点をどこに求めるかで全然違ってくるわけですけれども、国家のあり方をどうするかということが、そういうわけで、問題になるわけです。現在、地方分権をどの程度認めるかということが問題になっているわけです。
 イタリアの場合、北部は、政党を中心にレジスタンス運動を展開したということであったわけですけれども、憲法も政党が中心になって憲法制定議会で決めたわけです。そのときに中心になったのは、キリスト教民主党と共産党と社会党でした。キリスト教民主党とか弱小政党であった共和党とか、当時あった行動党という政党が分権化を支持したのです。自由党という政党はファシズム体制以前の中央集権国家体制、これを支持するということでした。一方で、この共産党、社会党、これは中央集権体制を支持しました。民主集中的な発想ですね。

 そのイタリア共和国憲法、「妥協の産物」と言われますけれども、とりあえず州制度を導入したのですが、政党間の意見が違ったので、直ちには実施しないというようなことになったわけです。出来上がった憲法ですが、基本原理の第5条に単一不可分の共和国とあります。まさにフランスの真似ですね。その範囲内で地方自治を認めるというようなことを規定したわけです。6条で「少数言語族を、特別の規定でもって保護する」みたいなことを入れています。そういう基本原理を採用して、第2部第5章、第2部、いわゆる政治機構、政治制度の規定ですけれども、その第2部第5章で、州と県とコムーネを細かく規定しています。

 その一部はレジュメでいきますと、7ページ以降のところに「旧」というところに書いてありますので後でご覧いただきたいと思います。ただし、これ1999年の憲法的法律で変えられている部分が入ってないので、途中抜けている部分があります。ちょっと資料が十分手に入らなかったのですが、ご関心があればお読みください。

 旧117条ですが、国の法律の定める基本原則の限界内で立法的規定を定めるというようなことで、州制度を採用するということであったわけですけれども、先ほど言いましたように、政党間の意見の食い違いで実施されるのは1972年以降でした。1972年に財政措置がとられて、72年、行政立法権限が、学校援助・地方自治体立博物館及び図書館で認められるという具合です。それから1975年、権限が完全移譲されるというようなことになったわけです。

 どうして1970年代にそういう実施になったかというと、要するにキリスト教民主党が第1党で、共産党が第2党であったわけですけれども、当時の共産党は政権を取る見通しがなかったわけですね。ただし、エミリア・ロマーニャとかトスカーナ地方、これは絶対的に共産党が強い地域だったわけです。というのは、レジスタンスを指導したのが共産党であったからです。ですから、戦後もずっと共産党が強い地域です。2000年のボローニャ市長選挙で初めて共産党市長が敗れるわけです。今は共産党とは言いませんけれど、ずっと共産党関係の市長だったわけです。それが敗れるわけですけれども、そういうふうにフィレンツェもずっと共産党系の市長ということでした。結局、全国はとれないけれども、州あたりはとれる。ですから、まず真ん中の州をおさえて、それから中央政権をとっていくという、そういった方針を転換したということが大きいわけです。

 1970年代に州制度が整備されてくる。ただし、当時の首長は間接選挙でした。ジュンタと呼ばれる、参事会とか評議会とか理事会というように訳されますが、それがその州の執行機関で、そこから選ばれました。つまり、議院内閣制的な構造を持っていたわけです。

 それから、州の権能というのは極めて限定的だったということです。7ページの117条の1に書いてありますけど、そこに書かれてあるものしかできなかったわけです。それ以外のことは、すべて国の監督というようなものであったわけです。それでずっと1990年代まで来るわけですが、90年代に入って相次いで改革が起こってきました。

 まず1990年の法律第142号で、地方自治体の法的主体性としての県とコムーネが謳われることになりました。それから、数十人のコムーネと200万人くらいのコムーネで全部同じ権限をもっていたわけですが、それはおかしいだろうというようなことで、ローマ、ミラノ、ナポリ、ボローニャといったところを大都市というような特別行政体にするというようなことになったわけですね。ある程度の自治を認めていくというようなことになったわけです。もっともこの大都市というのは、今の憲法でもそういうような設置になっているのですが、具体的にどうするかというと、まだ話が進んでないというようなことです。

 それから93年には、法律第181号というもので地方選挙制度改革が実施されました。コムーネの長、シンダコといいますが、それから県知事、これを直接選挙で選ぶというようなことになりました。それから議会選挙も、多数派にプレミアムを与えて議会をコントロールしやすいようにするというような方法にしました。つまり、首長のリーダーシップというようなものを強化する方向で改革がなされたわけです。

 イタリアの場合、戦後の体制というのは反ファシストというのが基本でしたから、結局、権力を分散させるということで、選挙は比例代表が基本だったわけですね。ですから、効率性よりも多元性を重視するということであったわけですけれども、戦後50年くらいたってきて、むしろ非効率のほうが目立ってきました。それで、政治的なリーダーシップを強化しないといけないというようなことで、それがまず地方選挙から改革が始まったということになるわけです。

 90年代後半に、もう少し発展的に改革がなされていきました。1997年の法律第59号、それから127号、それから98年の法律第191号、合わせてバッサニーニ法と呼ばれますが、当時、オリーブの木の政権だったわけですけれども、プロディー内閣で公行政大臣というものを務めていたバッサニーニが主導者ということでバッサニーニ法と言われるわけですけれども、これらの一連の法律を通じて、地方自治体への国のコントロール、干渉を制限することになりました。それと同時に、行政事務を合理化、簡素化するというようなことになったわけです。

 特にここで注目されるのは、これは地方制度の改革ではなくて、国の行政改革の法律であったわけですけれども、その中で国家機能の州への分権化というようなことが規定されたわけが、補完性原理を導入することになりました。国の権能を制限的に列挙し、残りの権能のすべてを州と地方自治体に移譲することになったわけです。

 先ほどの117条の右側に新しい憲法条文を載せてありますが、このバッサニーニ法は後で言いますけれど、2001年の憲法的法律でまとめて整理されて憲法改革がなされるわけですけれども、その基になったのはバッサニーニ法です。もともとの規定とは逆に今は国の排他的な権限がそこに列挙されてあって、それ以外のことは基本的に州の権限というような、大きく原理が転換されるということになったわけですね。

 さらに、1999年の憲法的法律第1号というもので、州の機関とその権限の見直しがされました。それから州知事直接選挙の導入です。それから州憲章規定の改正、州議会の解散規定というようなものがなされまして、この法律で初めてこの州知事の直接選挙が行われるようになりました。州においても強いリーダーシップというようなことが求められるということになったわけです。

 2000年4月に、この州知事選挙が州議会選挙とともに行われて、普通州15州のうち8州で中道右翼が勝利しました。州知事選挙の結果が国政に影響を与えて、当時のダレーマという左翼民主派、旧共産党出身の首相が辞任するというような大きな影響を与えるものになったわけです。

 2001年、憲法的法律第3号というもので、これまでの改革がバッサニーニ法にまとめられ、コムーネ、県、大都市圏の自治権を憲法的に承認しました。それから、州の立法権が大幅に強化去れ、補完性原理が導入される、財政自治権が強化されました。国と州との関係が水平的な関係になるということになったわけです。

 その結果、例えば11ページにある123条の2項で州憲章とかが制定されたわけです。123条の2、3行目ですね。「この法律には、政府監察官の査証が付されない」とかいうようなことがあったわけですけれども、127条ですね、127条1「州議会により可決された法律はすべて監察官に報告される」というような監察官の制度があったわけですけれども、これが廃止されるというようなことになったわけです。

 監察官が廃止された結果、もし手法が違憲だと考えると裁判所に提訴するというようなことで裁判の決着を図ることになりました。また、州が国の法律が違憲だというふうに考えれば、州のほうが国を憲法裁判所に訴えるというようなことになったわけです。ただ、この憲法でそういう原則が定めてあるのですけれども、結局、境界線が明確でないために提訴されるケースがかなり多いというような状況のようです。

 次に地方財政改革のほうですが、地方自治体における財政上の独立性はこれまでずっとなかったわけですね。特に州が設置されましてから、コムーネの自主財源はほとんどなくなって、国・州からの補助金とか交付金に依存する状態であったわけです。それが、90年代に先ほどの地方制度の改革と連動する形で、見直されていきました。財政連邦主義という考え方が取り入れられて、地方自治体の収支を均衡化するというようなことになったわけです。

 まず93年、都市財産税が導入されました。次に自動車税と健康保険からの収入は、州政府の財源とすることになりました。それも税率の変更が可能だということです。そういうことに伴って、94年から交付金を削減していくことになりました。それは増税と健康保険料の引き上げというのとバーターであったわけですけれども、そういうものにして徐々に自主財源を増やすという方向になったわけです。

 その中で特に州の財政自主権限を強めていったというふうに言われるのが、IRAPと言われるものの導入であるわけです。州生産活動税、事業税というふうにも訳されたりしますけれども、要するに企業の生産活動による付加価値から減価償却を除いたものに課税される、外形標準課税と言われるものです。

 このIRAPの導入に伴って、地方法人税とか市町村事業税とその他が廃止されたわけですけれども、導入に伴って州の財源がかなり高まったということであるわけです。IRAPは標準税率が4.25%ということですけれども、各州の判断で、最高1%の引き上げが可能だということになっています。

 IRAPの導入に伴って、健康保険料の企業負担というようなものを廃止することになって、企業の人件費コストも削減するというような効果があったということですけれども、これが大きく貢献しました。特に州の歳出で大きな割合を占めるのが、医療保険の制度ですが、その9割はIRAPからの税収で賄うということになっています。ただし、このIRAPは、現政権のベルルスコニーニ政権では、労働コストに対する課税だというようなことで批判的です。段階的にその税率を下げていくということです。2002年に2.5%、2003年に2.0%と。最終的には今年から廃止というようなことになっているのですけれども、今のところ廃止されてないようです。

 その廃止分をどうするかということですけれども、所得税ですね。IRPEFというのがありますけれども、その州課税を上げるということによって相殺するということですが、結局、左翼側の人たちはIRAPの廃止に反対で、右側の人たちは賛成だというような、そういう状況です。

 この所得税の州付加税というのが97年からやはり実施されまして、0.9%~1.4%上乗せできます。上乗せ分は当然、州の財源になるわけですけれども、この徴収は国で実施しているので、納税者の意識としては国税と理解するので、大きな反対もなく徴収されているというようなことのようです。

 それから、国税である付加価値税(VAT)ですね。これ「VAT」と書いていますが、イタリア語では「IVA」と言いますけれども、その一部を地方へ配分するというようなことになっています。この地方配分は税収格差と、それから高齢化による当の地域によるニーズを勘案します。それから、2000年の最終実績というものに基づいて配分するということになっているわけです。

 そういう改革によって州及び地方団体の歳入は、そこにあるような形で改善されているということであるわけですね。あと、国内安定化協定というようなものを定め、年度経済財政計画というものを策定して、州・県・コムーネの財政収支改善目標を定めるというようなことになっています。今、今年度分の安定化協定の協議をしているところですが、かなりもめているようです。

 あと、ここにはちょっと書き忘れたのですけれども、あと均衡化基金があります。州の格差の均衡化基金というようなものの設置が、新たに憲法第119条で規定されたのですけれども、まだ具体的にどうするかというのはまだ決まっていません。近々その均衡化基金の具体的な結論が出るようです。経済財政省の中にその委員会ができていて、そろそろ結論が出てくるということのようです。

 このほかに、南部の州でEUの構造基金というものを受けています。カンパーニア、プーリア、バジリカータ、カラープリア、シチリア、サルデーニャ、モリーゼですね。モリーゼは2006年までですが、その7州が補助の対象地域ということで、スペインに次いでイタリアが確か2番目だと思いますけれども、この補助を多く受けています。これらの州ですけれども、基本的に南部ということですね。

 一方でロンバルディアー、ミラノとか、それから特別州でもトレンティーノ、アルト・アディジュといったようなところは、ヨーロッパでも最も豊かな地域です。それに対してヨーロッパで1、2位を争うような貧しい地域が混在している、そういうことであるわけです。

 こういった改革が90年代に相次いで起こったという、かなり急速に起こったということですけれども、それはどうしてかということですけれども、この地方制度の改革だけが単独に行われたのではなくて、90年代半ばからの政治改革、行財政改革と連動していたわけです。どこの国も基本的にそうなのでしょうけれども、イタリアの場合は、例えば選挙制度改革といったようなものと結びついていたわけです。

 というのは、90年代前半までイタリアの政治というのは、ほとんど変わることなかったわけですね。戦後の体制、要するにキリスト教民主党と共産党と社会党とそれから右翼のイタリア社会運動、これが第4党までですが、左右の共産党とイタリア社会運動は政権に加われない、キリスト教民主党を中心とする真ん中に位置する政党が連立政権を組む。連立政権は不安定ですから、すぐ1年も持たずに交代するけれども、出来上がった内閣は同じようなものだったわけです。政党が中心となって戦後のイタリアを再建するというようなことがあって、政党支配体制というような体制が出来上がっていたわけです。国営放送が3チャンネルあったわけですけれども、第1チャンネルはキリスト教民主党系、第2チャンネル社会党系、3チャンネル共産党系、ニュースを三つやるわけです。そうすると、第1チャンネルはキリスト教民主党ですから、ローマ教皇の姿が割と頻繁に出てくる。一方、社会党は社会党系の首相を。例えば選挙が終わった、きょうから国会が開かれます。ばーっと国会に入ってくる政治家の顔がクローズアップされるわけですけど、そうするとそこに社会党の大物議員の顔がクローズアップされるというような具合なのです。それで第3チャンネルはどうなっているかというと、今度は政府批判の討論会みたいな番組をずっとやっています。

 さらに、全国にある特殊法人とか、そういったもののトップも政党に系列化されているわけです。ですから、その政党が支配しているということなのですけれども、それでみんなうんざりしているのですが、一方で、自分が何か役所関係の手続きをしないといけないとなると、党員証がものを言ってきてコネで片付けてもらうというようなことになっていたわけです。それがまた汚職を生んでいたわけですね。

 政党支配体制というのが強くあって、それから92年に今度はミラノの老人ホームの施設を開園するときに賄賂を送った、送らないというようなことが発端になって、汚職事件が勃発して、それがあちこちで連鎖的に摘発されました。国会議員の過半数にまで、捜査通告が出るような状況になってくる。いわゆるタンジェントポリと言われる汚職事件ですけれども、そういったもので政治批判が高まるということになったわけです。

 それで結局、政権交代を起こさないといけないというような動きが出てくる。日本と同じような動きだったわけです。それで選挙制度改革というようなものが行われて、日本と同じような小選挙区が75%、比例代表が25%といったような混合選挙制度が導入されました。先ほどの地方選挙制度改革も、それと同じような流れだったわけですね。つまり、腐敗をなくすためには政権交代が必要だというような話だったわけです。それから公務員とか省庁の再編といったようなもの、それから規制緩和といったようなものが、腐敗をなくすために当然必要だというようなことになってきました。

 それで憲法を大幅に見直すという動きが出てきます。タンジェントポリという事件が勃発したのが92年で、93年に大きく広まっていくわけですけれども、それでキリスト教民主党とか社会党とかなくなっちゃうわけですね。新たにベルルスコニーニ率いるフォルツァ・イタリアというようなものが出てくる。つまり、そこで第1共和制は終わりだ、次に第2共和制だというような動きが出てくるわけです。それで憲法を改正しようというような動きが出てくるわけです。憲法の改正のための両院合同委員会というようなものがつくられたりするのですが、それも結局、最終的に野党の反対でつぶれていくわけですが、しかし、そういったものと連動していたということです。

 それから、年金制度改革とか健康保険制度改革というようなものと連動していました。腐敗をなくしていく、効率的な制度にしていくというようなことが求められていたわけですが、その一環として、地方制度改革がなされていったということであるわけです。

 よく知らないのですけど、日本だとどのぐらい税があるんですかね。イタリアでは税の種類が120以上で、50の異なる手数料、関税が存在していたらしいですね。1994年の段階で税金に関する法令が3,368と。毎年2億通の書類が徴税当局に送られて、350万件が法廷で争われていたとのことです。結局、税金を取ることが難しい、要するに脱税が楽にできるということで、毎年GDP比4%~9%の範囲で税収が失われていたというような状況であったわけですけれども、それを何とかしないといけないということだったようです。

 EU統合の影響が当然そこにあったわけです。特にユーロに参加するということが絶対的な使命であったわけですね。マーストリヒト条約で規定された経済収斂基準、その単年度の政府財政赤字をGDPの3%以下にしないといけない、これを97年までに絶対的にクリアしないと、ユーロに参加できない。どこも無理そうだということで、当時のプロディー首相がスペインに行って「一緒に遅らせよう」と言ったら、スペインが「俺たちは行く」というようなことになった。

 イタリアは、イギリス、フランス、ドイツには負けても構わないのですけれども、スペインには負けられないのです。妙な意地があるのです。というのは、フランス、ドイツ、イタリアがヨーロッパだという意識が強いのですね。それから、スペインはイスラム支配があった。不思議なことなのですけれども、イタリアの政治学研究者というのは、フランス、ドイツとかイギリスを専門に研究している人はあまりいないのです。もっぱらイタリアのことを研究していて、たまにほかの国をやっているとラテンアメリカの研究だったりします。どうも自分たちが優位な状況に立てるようなものしかやらないというような傾向があるのです。

 いずれにしても、ユーロに参加しなければいけない。最初ローマ条約でECSCが発足するのですよね。ヨーロッパ統合の出発点がローマ条約だったわけですが、結局、ユーロに参加できないとなると、これをセリエBだ、我々はセリエAにいないといけない、そのユーロのための課税とかもするということになったわけです。ユーロ参加がとにかく絶対的条件なので、とにかく国の財政赤字を改善するためには地方の自主性に任せるということだったのですね。

それまでは国からの全部の交付金だったわけですから、コムーネなんかはほとんど自主財源がなかったわけです。そうするとどういうことかというと、要するに欲しいだけ、これだけ要るからよこせというような状況になっていたわけです。それでどんどん出てくる。だから、それは困るから自分たちのことは自分たちでやってくれというような状況になったわけです。EU統合を利用したというようなことになったわけです。

 それから、先ほど久邇さんの報告で、地域圏のエリートがいなかった、力が弱かったというような話がありましたよね。けれども、イタリアの場合には北部同盟という政党が80年代後半から出てきます。イタリアには、いろいろな、何とか同盟というような地域運動があったわけです。ほとんどは意味のないものだったわけですけれども、どういうわけかこのウンベルト・ボッシ率いる自主運動が成功をおさめたのですね。

 ボッシは、パヴィア大学の医学部を中退した、ある意味いかがわしい人物です。というのは、イタリアの政治家はほとんど大卒なのですね。イタリアは、大学へ行かない社会です。つまり、店員とかになるのに何で大学行く必要があるのだというような発想をするわけです。何で職人になるのに大学行かないといけないのだと。要するに、商売のネタになるような勉強をしたほうがよっぽどいいわけで、大学へ行かないわけです。今でも大学、基本的に全入ですけれども、高校卒業資格取っていれば入れますけれども、今でも法学部あたりで卒業率3割ぐらいですね。政治家になる連中は必ず大学を出ておかないといけないという意味では、学歴的にエリートなわけです。

 ボッシの場合はそういうものから外れた、ドロップアウトした人間だったわけですけれども、彼自身ほかの地域運動の指導者の演説を聞いて、自分もそういうものをやってみようというようなことだったのですけれども、どういうわけかこれが成功する。彼はどうやったかというと、ロンバルディーア地方というようなもののアイデンティティーをつくり上げるわけです。

 ロンバルディーアが、かつてまとまって国として存在したということはないわけですけれども、そういうことをつくり、アイデンティティーに訴える、メンタリティーに訴えるというようなことをやる。民衆に向かって方言でしゃべるというようなことをやる。ローマのエリートが、政治エリートはみんなスーツにネクタイ、暑いときでもきっちりスーツ着て、ネクタイして、だから私のようにこんなラフな格好で話をしているのはいかにエリートでないかということになるわけですけれども、そういう中でネクタイをするけれども緩めたりする。場合によっては、Tシャツ姿で行進の先頭に立つというようなことをやる。最初、北の低学歴、低所得層の人たちに、特に中年、青年男子に共感を得るのですけれども、徐々にそれが広まっていく。それでどうしたかというと、最初は自分たちのわかりやすい言葉で話してくれるからということだったわけですけれども、徐々に先ほど言った政党支配体制批判を強めていくわけですね。何で北部が南部の犠牲にならないといけないのか。我々はヨーロッパでも1、2位を争うほど豊かな地域なのに、何で我々が苦しまないといけないのか。つまり、今のイタリアは、北部が稼いだお金を中部が集めて南部が浪費している、だから、北部と中部と南部と連邦制にするべきだというような主張を展開するわけです。

 南部問題というのはイタリアの重要な問題だったわけですけれども、南部のやつらは働かない、南部は泥棒だ、みたいな意識が多少なりともあったわけです。ただ、それを公然と政治家が言うというのはタブーだったわけです。そのタブーを破るわけですね。それで、支持が広がっていく。北部だけですけど。

 そのご、それを支持する知識人とかあらわれてきて、確かに北部は中央ヨーロッパを志向していて、南部は地中海世界で別だ、もはや国民国家の枠組みは崩れている、だから、北部と南部は別の制度を導入すべきだ、緩やかな連邦制にすべきだというようなことが出てくる。そのとき、EUの地域というような単位に注目するというようなことになっていくわけです。

 ですから、州憲章をつくるというような段階になってきますけれども、州が憲章を自由につくれるというような状況になってきていますけれども、そうすると北部の州なんかは州として外交権をある程度要求するというような動きも出てきているのです。そういうようなことになっている。先ほど話してきた憲法の改革というようなものの具体的にきっかけをつくったのは、実は北部同盟だというように思われるわけですね。
ボッシは、乱暴な表現でその人種差別的な発言をする、移民法というようなものをつくって、移民体制を見直そうということになっているのですが、それを推進したのはボッシです。時々過激な発言をするんですけれども、勢力が小さくなっているので、今、過激な発言をしないと存在意義が認められないので、やや過激な発言をしているということです。要するに、分権化の流れが進んでくると、自分たちの存在意義が逆になくなってくるわけです。そうすると、そういうことを言わないといけない。ベルルスコニーニはそういうことを面と向かって言えませんから、ボッシに言わせているというようなところもあるのです。みんな政治家ですから。そういうことであるわけです。でも、そのボッシは今、制度改革及び分権化担当大臣ということで、強力に分権化を進めているということになっているわけです。

 今もイタリアは分権化の動きがありまして、今度は憲法第2部第1章議会を中心に改正の動きがあります。ことしの3月に上院を通過して、これから下院の審議を経なければなりませんが、今度は首相の権限を強化する。それから、上院を改革するというような動きが出てきています。2011年に完全実施ということを予定しているのですけれども、そんな先のことまで決めたってイタリア人は動かないだろうというふうに思われるわけですけれども、一応、現在は上院をまず改革するということです。現行制度は上下両院対等ということで、似たような選挙制度です。一応、上院は州を基礎として議員を選出するということになっていますけれども、比例区の単位が州ということだけで、別に州代表でも何でもないのですね。普通の国民代表ということですけれども、これを州代表の機関にするというふうにするということです。

 州と国との共同あるいは共同事項に関する法案だけ、上院は関与するということです。上院には首相の不信任決議権はないというようなことにして、下院は国に関する法案だけ関与するわけです。それから、上院選挙は州議会選挙と同時に実施する。そういうような改革案が出されています。と同時に、州の権限を医療と教育と地方警察を州の排他的な権限にして、あと国益条項というようなものを入れて、これを上院の権限ですけれども、国益の観点から州法を阻止するというような動きというようなものが出てきています。

 それから、州は人口100万人以上というようなことを要件とするということなので、将来的に州制度15州とか、今、普通州15州、特別州5州というようなものが変わっていくというようなことですね。ですから、今後5、6年、今お話ししたようなことと変わっているような状況に、イタリアの制度はなっているかもしれないということです。

 駆け足でしたが、以上が大体イタリアの制度の概要です。
(テープ終了)




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